最初になんですが、元々アファンタジアの情報を客観的にまとめた情報サイトが欲しいなと思って始めたんですけど、色んな所で言っているように方針転換したので、今回とか特にアジタンの思うことを書くだけです。
さて、個性か障害かについてです。アファンタジアについてある程度調べたり追っかけてきた人、もしくは自分がそうで一体何なのか考えてみたことがある人には避けられない話題だなと伝わってると思うのですが、
アファンタジアは日本では現状当人たちが好き勝手自論を語っているくらいしか情報がありません。その中で当然スタンスは人それぞれで正しい見解みたいなものは全く固まってないんですけど、1つアファンタジアへの向き合い方も今後の行動も変わる捉え方の2分があります。それが、アファンタジアは個性の一つであると考える人たちと、アファンタジアは障害であると考える人たちです。
まず、アファンタジアを個性と捉える人たち。これは単純でしょう。心の目が見えないというのも、好きなものが違ったり、勉強が得意な子と運動が得意な子がいたり、黙々と作業すると捗る性格と他人と交流しながら作業すると捗る性格の人がいたりという優劣のない差異の一種。良い点も悪い点もあるが能力の差といった話ではなく違いに過ぎず、つまるところは個性、その1つ。という考え方です。
次にアファンタジアを障害と捉える見方。これは言葉からして語弊が生まれそうかつ悪を感じるが、要するにアファンタジアは他の人と比べ何らかの出来ないことを生んだり不都合を生じさせたりするよ、という捉え方。音感がなく生まれてきたや花粉アレルギーを発症していたなどと他の人が労せずできることをどうやっても出来ない生まれつきのハンデや病気など疾患にかかり普通を達成できない状態というものがある。アファンタジアもそれらに類するものだと考えるということだ。これを纏めるなら、アファンタジアは生まれつき、諸感覚を脳内で感じるかのように想起させる人類共通の能力を欠損していた障害を持つ人というようになるのだ。
じゃあアファンタジアは実際多様性なのか欠陥なのかどっちなのかという話だが、
まず個性派、違いはすべて個性であるとの主張。ふむ、アファンタジアは確かにいろんな面で非アファンタジアと違う、ならば個性なのだろう。
次に障害派、アファンタジアは不能もしくは大きな壁の要因となりうる。ふむ、これは他の記事を読むなり1時間家で様々なシチュエーションをイメージして考えてみれば即分かる、考えれば考えるほどデメリットが見つかる、例えばアファンタジアはまさに今あげた手法も出来ない、ならば障害なのだろう。
…あれっ?
まあどっちかとか2分とかずっといってきたが本質的にはそういう話なのだと思う。対立しちゃいないし被りもある。さて、それでもやっぱりこの2つどっちを取るかで発想も行動も変わるので、ここまでのことを前提にしたうえで以下アジタンがどっちを取るか
①個性派は違いを個性と呼ぶ。それは足の不自由な人も(要は手足を欠いてたりする人)目が見えない人も障害派の例で挙げた音痴もアレルギーも体質であり優劣がないものとする。どう思う?
②しかし、この思想自体は重要かつ正しさを含むものだ。障がい者への差別を防ぎ1人1人を見て同じになるよう扱う考え方なのだ。 …で?って話だよね。まずアファンタジアは差別されるどころかいることすら知られていないため差別へのカウンターとしての役割は意味がない、1人1人を見るやり方も同等に扱われたらアファンタジアは不能は数多あれど強みはない(ここへのツッコミは後で)、同等になるように扱おうにも正確な実態も困りごとも掴めていないアファンタジアはフォローしようにも出来ない。
③最後にアファンタジアは不能は数多あれど強みはないの補足。これが困りごとなのだが、アファンタジアは考えれば考えるほど、調べれば調べるほど、他の人の意見を見れば見るほど、明確な出来ないことは見つかり明確な強みは見えなくなっていく。個性派のキモはアファンタジアにも光る部分があることで、アジタンも弱みしかないなんてことあるのか疑問なんだけど、ほんとに知るほど弱みばっか増えていくんだよね…(個性だと呼んでいる人はアファンタジアって気づいたばっかなのかも知れない?)
上の段落ごとの3つの理由から個性派は間違っているうえ、欠陥ばかりなアファンタジアを見つめず、完全にいないものとされひたすら平等に虐げらてくる今の社会を黙認する、現状維持しか生まない諦めの思想にすぎないと思う。そんなの私はいやなので個性派は名乗らない。
次に障害派、響きが悪いよねえ。
元々自分は性格的になんでも多少強引でもフラットに見る癖があったのでこっち側は取る気はなかったんですよ、でも記事を書くために調べて考えて見るとねえ…これまでの記事も書き始めた時は大体どれもネガティブに書く気はなかったのにあの有様ですからね。
とにかく今の社会的に見ても個人として幸せに生きれるかを見ても不能が多いことは異論の余地がなく障害派の主張に合致する。また、今の社会なりアファンタジアの症状は乗り越えるべきものであるように感じるので信念としても都合がよい。
なのでアジタンはアファンタジアの強みがたくさん見つかるか意見が変わるまではこっちの立場に寄って話す。
アファンタジアの現状において個性と捉えることは歪みを含みメリットもない、よってアジタンは反対の立場をとる。
言ってしまえば結局こんな状況もうたくさんっていうだけの話なんだけどね。
何が真に悪いのかは分からないけどとにかく嫌じゃない?
アジタンが意見を変えるような異論やら貴方が見つけたアファンタジアの強みやらいつでも首を長くして待ってます。記事のコメントでも自由板でもTwitterアカウントへのリプライでも個人のつぶやきとしてでも見に行きます。